三宅ファミリーの歴史


ローマオリンピックから4大会連続代表。
ローマオリンピックは銀メダル
1964年東京オリンピック金メダル
1968年メキシコシティオリンピック金メダル
ミュンヘンオリンピック4位

1968年メキシコシティオリンピック フェザー級銅メダル
メキシコシティオリンピックでは義信義行兄弟が同じ表彰台に立った(オリンピックの個人種目において、同じ大会の同じ種目に兄弟で表彰台に立ったのは、日本ではこの一例のみ)。

ロンドンオリンピック 48kg級銀メダル
リオデジャネイロオリンピック銅メダル

左から三宅義行(弟)、三宅宏実(姪)、三宅義信。
ファミリーでオリンピックメダル、金・銀・銅を2つづつ獲得したのは、世界中でも三宅ファミリーだけです。


三宅義信 経歴

9人兄弟の6番目に生まれ、(弟・義行は7番目)学費を稼ぐためにアルバイトをしていたからクラブ活動とは縁がなかった。高校生の時メルボルンオリンピックを見て初めてオリンピックの存在と重量挙げの競技を知る。
当時柔道をしていたが不利な小柄な体格を鍛えるために重量挙げでトレーニングをすることを思いつき、自宅でトロッコの車軸をバーベル代わりにした。
猛練習の結果、半年程で高校選手権で入賞。このころに頭角を現す。
1962年に法政大学卒業。陸上自衛隊に入隊し数々の国際大会で優勝、同時に記録保持者となる。
オリンピックは、ローマオリンピックから4大会連続で出場、ローマでは銀メダルを獲得、東京オリンピック(1964年)メキシコシティオリンピック(1968年)では連覇を果たし2大会連続のゴールドメダリストとなる偉業を達成した。
3大会連続の金メダルと4大会連続のメダルを狙ったミュンヘンオリンピックでは健闘の結果4位入賞に終わった。
当時は指導者もあまりおらず、それでも三宅氏は考え、工夫をした。8万円もする高級なカメラを 借金をして購入。(給料が1万円程の時代)自分のフォームをカメラで撮影し研究するためだ。
重量挙げ競技の会場が突貫工事で建設されるのを見て、選手だけが頑張っているのでなく、 日本中が頑張っているのだから必ず勝たなければいけないと思った。
東京オリンピックの日本の金メダル第一号!夢を見事に達成して見せた。 現役引退後も自衛官の幹部として勤務する傍ら多くの選手を育てた。 日本重量挙げ界に貢献し、1997年に自衛隊体育学校校長(在任期間中、甥の敏博も所属)を 最後に退官した(最終階級は陸将補)。
退官後は小松製作所顧問を務める傍ら、 日本トライアスロン連合副会長、日本オリンピアンズ協会常務理事、東京都ウエイトリフティング 協会副会長、東京国際大学特命客員教授、東京国際大学ウエイトリフティング部監督などを歴任した。
前人未到の2連覇(東京・メキシコ)の功績により1968年に内閣総理大臣顕彰を賜り、 1989年には故郷である宮城県柴田郡村田町の名誉町民に推挙される。
その後、紫綬褒章を受章、 2011年には瑞宝小綬章を受章。また、顕著な功績のあった自衛官として現役自衛官時代に第1級賞詞 (第2号防衛記念章)を2度受賞している(第1級賞詞を2度受賞した自衛官は、三宅と小原日登美の2名のみ)
2020年東京オリンピック招致決定後の2014年5月にて現役復帰を果たした。
あの東京大会の記憶がよみがえるとともに、選手の育成に使命感を燃やしている。

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